山口県周南市の本城三儒(ほんじょうさんじゅ)屋敷跡を紹介します。
本城三儒(ほんじょうさんじゅ)屋敷跡とは
徳山藩の本城家の屋敷跡のことです。
また、こちらが「本城三儒」と呼ばれたのは、本城家に「紫巌」、「太華」、「素堂」と3代に続いて儒学者が続いたためです。
近くに周南市教育委員会の看板があったのですが、前提知識がないとなかなか難しい内容でした。
多少内容を少し継ぎ足して、以下にまとめました。
本城紫巌(ほんじょうしがん)
1737~1803年。
長州藩の儒学者である山根華陽や滝鶴台に学びました。
天明5年(1785年)に徳山藩の藩校、鳴鳳館(めいほうかん)が創立されると、初代学頭として発展に尽力しました。
本城太華(ほんじょうたいか)
1775~1844年。
紫巌の子で、九州の高木紫溟や亀井南冥に学びました。
その後鳴鳳館の助教となり、世子広篤(後の9代藩主:毛利元蕃)の字読となりました。
本城素堂(ほんじょうしどう、通称:清(きよし))
1825~1865年。
同じく徳山藩士の江村氏の出で、太華に子がなかったため養子として本城家を嗣ぎました。
その後、藩主:毛利元蕃の近侍となり、徳山藩の藩校、興譲館(こうじょうかん)の教授となり、世子元功(毛利元功)の近侍となりました。
※興譲館は鳴鳳館が移転してできた後継の藩校。
本城三儒屋敷跡の風景
城三儒屋敷跡の風景を撮影してみました。
が、実は被写体がそれほどないです。
本城三儒屋敷跡の全体像
こちらが本城三儒屋敷跡の全体像になります。
大きな道路の真ん中に木が1本あり、この位置に屋敷がありました。
徳山市街は徳山空襲で全域が消失しました。
そのため、戦後まっさらになった後に、こちらには道路ができたようです。
横断歩道の真ん中の大木
横断歩道を真ん中まで渡ると、大きな木があります。
ここが「本城三儒屋敷跡」のあった位置のようです。
見上げると葉が生い茂っており、夏場は涼しげな木です。
石碑と立て看板
木の根元には、本城三儒に関する石碑と立て看板があります。
この2つが実質現在一般に見られる、本城三儒の最後の痕跡ではないでしょうか。
「本城三儒屋敷跡」石碑の文字
石碑には「本城三儒屋敷跡」と書かれています。
木の影が道路を覆っています。
少し見づらかったので、「屋敷跡」をドアップしました。
こうしてみると、周りの草は小さく、小まめに整備されているようですね。
ちなみにここは車どおりが多く、撮影は何度かやり直しました。
おそらくJR徳山駅と2号線を結ぶ1本道だから、車が多いのですね。
アクセス
JR徳山駅から徒歩20分程度の場所にあります。
以上です。